要旨:中日両国は神話に対する研究がヨーロッパより非常に遅くて、研究がまだそんなに深くない。特に、中日神話の比較研究がもっと早いことであり、それに両国の間もそれについての交流も少ない。神話というものは文字通り、神様の物語である。もちろん、架空である。原始人民は自然の中で起こったことにはなんとなく理解できなくて、それは神様の指示で生じたと思った。だから、原始人民の生活習慣や原始信仰、自然に対する態度などが神話に現すことができる。さらに、両国間の同じ文化基礎とか発見できる。
本文は比較法によって、両国の創世神話(特に中国の盤古、女娲と伏羲、日本のイザナミ神とイザナキ神の創世神話)を比較して、両国神話の共通所と違う所を発見する。
それは中日に対して、十分の意味があると思っている。
中日両国はもう1つの違いがある。中国の神は世俗を離れて、世俗の食べ物を食べないのに、日本の神は世俗に入って、人間性を豊かに持っている。中国創世神話に、盤古と女娲は、すべて世を憂える神であり、世界を創造したり、人類を創造したりして、神聖さを侵犯してはいけない。日本の神はギリシア、北欧の神話での神と同じく、人間性(ギリシアと北欧の神達は人間のように遊ぶ、恋愛、ねたむ)を持つ。日本の創世神話に1人の重要な神がいて、“速须之男命”と称される。彼は天照大神と同胞の兄弟であるが、天照大神の田の中で“春で種をまきて、しかもその畔を壊す。秋に天斑犬を放牧して、畑の中に伏せさせる”、更にそのお姉さんが新しくものを味わう時、“こそこそとで大便を置く”、また“神の衣服を編んで、部屋に位置して殿に従って、天斑犬をむいて、殿を通る棟瓦は投げて納める。"、天照大神を大いに驚かさせて、梭に身を傷つけられ、顔からよけて天石窟に入って、それから天地は一面の暗黒の中に陥る。速须之男命がいたずらな神であるとは言え、体に潜伏している多くの安定しない要素がある。しかし、日本で、こんないたずらな神は強くて勇ましくて戦いに長けているので尊敬される。これも日本が武術を尊んだ国家であると表明できる。
それは中国は主に儒教に影響され、日本は主に神道に影響されるからである。しかし、中日両国の交流が深くなるにつれて、日本も儒教に影響された。だから、日本の文学で憂い悲しんでいる作品が多くある。