はじめに
日本語を学習し始めるときからよく「日本語はとても曖昧である」という話を聞かされる。『広辞苑(第5版)』[ 新村出編 広辞苑第5 版 岩波書店 1999]にて「曖昧」の意味を調べると、「確かでないこと。まぎらわしく、はっきりしないこと。」とある。すなわち不明確、不明瞭なもの・ことを指すと考えられる。日本語の学習では日本語の曖昧なところや、同じ単語でもまったく正反対の意味になったりすることがよくある。
日本語に曖昧さがあるのは、日本人の相手に対する思いやりであるという説もあるが、日本人はできるだけ自分の考えを表したくない、旗色を鮮明にしたくない、それはリスクを増やすだけでチャンスを招くことにはならない、だから引き合わない、でも生きていくためには一応最低限の意志疎通はしなければならない。人々がそう感じ始めた辺りから、要するに何を言いたいのかよく解らない、話し手には責任がなく、伝えるべき意味を聞き手の自己責任で解釈させることを目的とする話法が台頭し始めたのではないだろうかと思っている。それで、日本語は曖昧であるからよくないとか、劣っているとかといった考えになってしまったのでは、正しい日本語の勉強はできないと思う。曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理解しなければいけないと思う。
本論では先行研究を踏まえながら、まず日常会話の類や文法的な面などから曖昧語の言語表現について分析する。それから、日本語の曖昧さをを通して、日本人の言語習慣と心理を述べる。最後に、どのように曖昧語を理解するかを説明しようという試みである。