序論
古代の中国と日本の通交の歴史は、きわめて古い時代にまでさかのぼる。一、二世紀の倭国王らの後漢への遣使、三世紀の邪馬台国女王らの魏及び西晋への遣使、そして五世紀の倭の五王たちの宋への遣使について、今触れる暇はない。ただその中で、遣唐使時代—古代における中日交流の黄金時代に入っていくのである。遣唐使は舒明天皇の二年「六三0」八月犬上三田耜を遣されたのを始めとし、宇多天皇の寛平六年「八九四」九月停廃されるまで、前後十九回の任命があった。毎回二—四隻の帆船に四百人から六百人もの人々が乗って港を出た。具体の状況は、次の図表に見るが如く:
遣唐使も時代によってその目的、組織、航路など様々な点に於けて変革があったから、それを四期に区分して考察するのが便利だと思われる。[]第一期は舒明天皇二年「六三0」出発の第一回遣唐使から斉明天皇に至る三十年間に於ける四度の遣唐使である。第二期は天智朝に於ける両度の遣唐使である。第三期は文武天皇から孝廉天皇に至る五十年間に於ける四度の遣唐使である。第四期は光仁天皇から仁明天皇に至る六十年間に互いに,三度の派遣である。木宮泰彦の『日華文化交流史』によると、第四期遣唐使は唐の衰退に遭遇したから、「ただ祖先の贻謀であるが故に、義務的に遵行したに過ぎぬ」といっている。しかし、本当に義務的に遵行したに過ぎぬだろうか。第四期遣唐使は絶対必要なことを説明して、自分なりの考えを述べてみたいと思う。